Cardshop Serraのできるまで其の弐

続いてB店のお話。
(話は其の壱から続いていますので、1つ前から読むとわかりやすいこらむです。)
こちらは脱サラして、友人のお金と合わせた資金でお店を始める人。

開店日はA店よりも早い2月。
つまり時系列的にはこちらのほうが其の壱と言えなくもない。

手伝いを開始した(開店日)日から、
多くのことをまかされ、仕入れも自由にやらせてもらえた。

問題は、
・資金の少なさ。
・家賃が安いとは言えない。
・看板が無い(←またかって言わないように。)
・古物商許可証が無い。
かなり難しい問題だった。

こちらにも自動販売機を置き、
シングルカードは色んな方法で手に入れて並べた。

この頃のYahooオークションは無料だった。
落札金額の5%をYahooにとられるような事も無かった。

ID取得にも本人認証等が厳しくなく、
自由取引の場として非常に興味深い場所だった。
自由がゆえに無法地帯という言い方もあったが、
自由なだけに多くの人が出品してくれ、
これはこれで面白い市場だったと思う。

詐欺に遭う事もあったものの、
絶版カードを仕入れるには悪くない仕入れ場所の1つだった。

Bさんはネット環境を持っていなかったので、
Yahooからの仕入れは仕事の1つになった。

昼起きて、まずYahooの商品をチェックし、
その後お店へ出る。

半年の間はA店とB店を行き来していたし、
両方のお店の掃除は基本的に1人でやっていた。

夜の10時にB店を出た後はA店に戻り、
夜の1~2時くらいまで1人で掃除や在庫整理は当たり前だった。

Yahooの終了時間に合わせて自宅に帰る事もしばしばだったが、
この頃はおおむね明け方5時に寝て午前11時に起きるのが日課だった。
労働基準なんて単語は多分通用していない。
自分で決めた事だったのでそんな事も考えず行動した。

で、
やっぱり給料はほとんどもらえなかった。
特にB店の場合は資金と在庫の少なさが厳しく、
お金→仕入れ→売り上げ→仕入れという、
基本的な商品と資金の回転率が非常に悪かった。

家賃+電気代+水道代でおおむね20万円。

これを最低限、純利益で出さないとならなかった。

今考えてみれば、
「そんな無謀な事、実行してはいけない。」
とやる前に気づくものだが、
当時、自分自身もBさんもそんな事を考えず必死になっていた。

計算してみると結構厳しいのだ。

50万円程度の資金から仕入れをし、
一ヶ月で純利益20万円を出してやっとお店の維持費なのだ。

仮に50万円仕入れた全ての商品が売れたとして、
おおむね25%くらいの利益が出るとすると、

62万5000円が売り上げ、
12万5000円が利益。

これはあくまで目安。
全ての商品が売れる事などは無いし、
利益率も25%とは限らない。

この状態で50万円の仕入れがもう一度出来る。

この62万5000円が一ヶ月の売り上げだった場合、
ここから維持費20万円を差し引き、残り42万5000円が次の月の資金だ。

42万5000円の仕入れから全てを売り上げた場合の数字は、
53万1250円。純利益は10万6250円。

ここから維持費20万を差し引き…

「ジリ貧」

という単語そのものだ。
最初の62万5000円という数字が、
せめて二週間で叩き出せる数字であったら、
お店の維持は楽だっただろう。

東京だったらこのくらいの数字どころかそれ以上を出す事も可能だろうが、
静岡の中心街でもない場所でこの数字は厳しいものがあった。

4月から半年後の10月、A店を辞めた。(辞めた理由は其の壱参照。)

B店専属の店員になった。
相変わらず維持する事だけで精一杯のお店だったが、
毎日は楽しかった。

Bさんは時間にだらしないところがあり、
昼にYahooオークション作業等をしているときに、
常連のお客様から電話をもらい、

「お店があいてません。」

と言われ、自分の作業を投げ出して、
お店を開けに行った事は幾度となくあった。

お店は最終的に20ヶ月で閉店となった。
よくもったものだなぁと今にして思う。
この20ヶ月間、自分が休みをもらったのは1日だけだった。

39度の熱を出して、お店に行ったら、
「帰りなさい」
と言われた。当たり前と言えば当たり前の話。
残りの約600日、休まず一日10時間程度の労働をした。

もらった給料は20ヶ月で24万円。
1ヶ月で12000円
なんと日給になおして400円だ。
時給にすると40円。

GS美神という漫画の主人公、横島君は、
時給255円で働いていたが、
それを遥かに下回る数字で働いていた。

事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。
実家暮らしだったからこそ出来たものであり、
MTGが好きだった事と、
Bさんを尊敬出来ていなかったら絶対に続かないものだっただろう。

そして、多くの友人に助けられた。
この頃、B店の近くで食堂をやっていたおばちゃん、
ある時に食事をするためのお金が無く、
食べる物が無かった自分に、パンを焼いてもってきてくれた事があった。

食堂を経営する人に無料で食べ物をいただいてしまう事、
申し訳ないと思いながらも嬉しかった。

いつか…なんてこんな時に出すべき言葉ではないと思いつつここに書いておきたい。

今もこの時の感謝の気持ちは忘れていない。
だから、いつか、このおばちゃんにしっかりお礼がしたい。

このB店では長く働いた事で、
お客様と喧嘩した事もあれば、
問屋とのトラブルもあった。

とにかく多くの事を経験、勉強させてもらった。

Bさんには「君はよくやってくれた。」と何度も言われたものの、
今、こうして思い返してみれば、
失敗の連続だったものをあまりにも思い出してしまう。

A店の話はAさんの中傷になりかねなかったので、
店名や実名を伏せたが、
B店は別に隠すものは無い。

お店の名前は多分誰も気にしていなかったというか

「Serra屋」とか「Serraんとこ」などと呼ばれて、

本当の店名が「フロントライン」だった事を知っている人なんてあまりいないはずだ。

フロントライン、和訳すると前線という意味なのだが、
どうみても、店長と店員が「前線送り」な状況だっただけに、
笑えない店名だったと思う。

このお店には多くの常連さんがいたが、
看板は最後まで取り付けられる事は無かったので、
店名を知らないままの人もいたに違いない。

このフロントラインでの経験は自立するにとても大事な経験となった。

お泊りまじっくもこの頃から思いつきで始めたものだった。

続く。

ではまた。

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